立花城と立花道雪(たちばなどうせつ)
立花城は立花山にあった山城です。
足利尊氏の家臣として仕えた大友貞宗の二男貞載(さだとし)は、1330年ごろ立花城を築き、立花氏を名のりました。以来、立花城は「西の大友」といわれ大友氏の軍事基地となり、その後、弟の宗匡(むねまさ)が2代目として立花城を継ぎました。
戦国時代には、有数の貿易港、博多の利権争いをめぐって、立花城を舞台に激しい攻防が繰り広げられました。
立花城古図(柳川古文書館所蔵)
歴代の立花城城督のなかで、もっとも有名なのは立花道雪です。
道雪のもとの名前は戸次鑑連(べっきあきつら)です。大友氏の有力な家臣、戸次親家(ちかいえ)の子として1513年に生まれました。大友氏の有力な武将として幾多の戦いに参戦し、1571年(元亀2年)に立花城督として、立花姓を名乗るようになりました。
戦国という動乱の中で、東国諸国に聞こえるほどの活躍をしますが、1585年(天正13年)、出陣中の筑後北野(三井郡北野町)で亡くなりました。73才でした。
道雪は立花山梅岳寺(曹洞宗)に、道雪の母と最も信頼していた家臣薦野三河守増時(こものみかわのかみますとき)とともに、安らかに眠っています。

登録日: 2003年5月20日 /
更新日: 2008年9月10日