明治の町村大合併

 明治維新後の日本は、めざましい発展を遂げ、いち早く近代国家の仲間入りをしました。こうしたなか明治21年(1888年)、時の内務大臣、山縣有朋(やまがたありとも)が「独立自治のためには資力のない町村は合併すべきだ」という方針を全国に指示しました。
 福岡県もこれに従って、1町村が300戸から500戸の規模になるように合併を進めた結果、5分の1の384町村になりました。これが「明治の大合併」で、このとき新宮町では的野・立花口・原上・三代の4つの村が合併して立花村に、また上府・下府・新宮・湊・相島の5つの村が新宮村になりました。

昭和の合併

 太平洋戦争のあと、日本は驚くほどの早さで経済復興が進められていきました。同時に再び地方自治の強化が叫ばれ、また占領軍の勧告もあって昭和28年(1953年)、町村合併促進法が施行されました。
 この時の新宮町関係の合併案では、立花・新宮・和白(現在は福岡市東区)の3か村合併でした。しかし、和白村が福岡市との合併を希望してこの案から外れました。
 これに代わって古賀町と小野・青柳両村(現在は古賀市)を加えた5か町村案が浮上してきました。しかし新宮村が大がかりな漁港改修をかかえていることなどから話がまとまらず、結局昭和30年(1955年)4月1日、新宮町(前年に町へ昇格)と立花村の合併で新しい新宮町が生まれました。このときの人口は、8,098人で1,439世帯でした。それが50年後の平成17年(2005年)には23,447人で8,155世帯となり、合併当時に比べて戸数は約5.7倍、人口は2.9倍になりました。(国勢調査の人口と世帯数です。)

村から町へ

 新宮村は太平洋戦争のあと、福岡市と隣接していることもあって、同市で働く人が住むベットタウンとなり、新たに転入してくる人が増えていきます。それにつれ、村を町にしようという声が高まりました。町へ昇格するには人口が5,000人以上で、全戸数の6割が一定の地域に集中していなければなりません。 昭和29年(1954年)になって、やっとその条件が達成され、県の認可を得て、その年の11月1日に新宮町が誕生しました。

新宮町誕生までのイメージ図