「通信使」とは、「信(よしみ)を通わす使節」つまり、お互いに信頼関係を深めあう使節という意味です。一行は三使(正使・副使・従事官)を中心に、上々官など300人から500人位で構成されていました。
 「通信使」は、徳川幕府260年余りの間に12回来日していますが、最後の12回目は、費用がかさむので江戸には行かず対馬に場所を変えて行いました。通信使の通り道である福岡藩は11回を相島でもてなしました。
 これらの出費はすべて、福岡藩が行いました。それには、10万石以上の藩ではすべて自藩で負担する取り決めとなっていたからです。当時の福岡藩は52万石の藩でした(のち47万3千石)。しかし、朝鮮通信使のもてなしへの出費は膨大なものでした。

 江戸時代は鎖国をしていましたが、数少ない正式な国交があった朝鮮李王朝との交流が相島でありました。相島は江戸時代当時、国際交流の最先端の場所だったと言えるのではないでしょうか。

朝鮮通信使像